電脳マヴォ

マヴォについて

大正末期に産声をあげ、3年に満たないわずかな間に時代の先端を駆け抜けたアバンギャルド芸術集団「マヴォ」。「電脳マヴォ」発進記念として、誌名の元にもなった、この呆れるばかりにアーティスティックで無茶苦茶な集団を大紹介する!

無茶と芸術

私はマンガが好きだ。そしてお笑いが好きだ。常識が崩れる瞬間を見るのが大好きだ。だから道理を超えて無茶が描かれたマンガが、一番好きなのだ。

4つか5つの頃、赤塚不二夫の『おそ松くん』を読んで、私はマンガとお笑いの両方が好きになった。以来私は赤塚のような面白いマンガ家になりたいものだと、小学校から高校を卒業するまでずっとマンガばかり描いていた。しかし結局マンガ家にはなれず、大学受験にも失敗し、プータローのままフリーの物書きになり、気がつけば、かつて自分を落とした美大で講師をやっていた。大学を出なければ小学校の先生にはなれないが、大学の先生になら高卒でもなれるのだと、この歳になってはじめて知った。

マヴォ第一回展覧会

マヴォ第一回展のポスター。
この1か月後に大震災が起こった。

我ながら無茶苦茶な人生だと思うが、この世にはもっと無茶苦茶な人がいるものだと知ったのは、大人になってからだ。大きくなって、私はアバンギャルド芸術に興味を持ったが、べつに難しい芸術理論を読んだからではない。彼らの行為が単純に「バカボンのパパに似ている」と思ったからである。

私が風倉匠やクリムトやダダカンの名前を知ったのは、大阪万博の翌年(1971)に出た「少年サンデー」の「へんな芸術」というグラビア特集からで、小学五年の時である。

なかでも私の興味を惹いたのがダダカンだ。谷岡ヤスジのアギャギャーマンのような格好で町を闊歩する写真にも衝撃を受けたが、「裸体行動芸術家」の肩書きにも衝撃を受けた。マンガの中でしかありえなかったような行為を現実にやっている人たちがいる。それも大真面目に。世の中捨てた物ではないな、と思った。

そのうちに、好きだった赤塚不二夫もおかしくなっていった。マンガをあまり描かなくなり、かわりにタモリと一緒にテレビに出て、パンツ一丁でローソク・ショーを始めたりした。芸術とお笑いとマンガは、目的意識においては違うのかもしれないが、やっていることはソックリではないかと思った。

「へんな芸術」がきっかけとなって私は赤瀬川原平を知り、ハイレッドセンターやネオダダ・オルガナイザーズを知り、読売アンデパンダン展を知った。そしてそのルーツである1910~20年代ヨーロッパのダダイズム運動を知ったのだった。

ダダという言葉は、1916年にフランスの詩人トリスタン・ツァラが命名した。辞書を適当に開いてたまたま目についた言葉が「DADA」だったと言われる。フランス語で、子供の玩具を意味する言葉だそうだ。

命名の逸話からもわかるように、ダダは発作的・非合理的・非理性的な表現活動を旨とする。たとえばツァラは新聞記事を単語ごとに切り抜いて混ぜ合わせ、適当に拾い上げた単語をそのまま繋げて自作の詩として発表している。

ダダの成立は直接的には、1915年に始まった第一次世界大戦への知識人の「反省」を契機にして始まった。人類最初の世界大戦は、近代科学文明が生み出した大量破壊兵器によって、未曾有の死者と破壊をもたらした。

ヨーロッパの若き芸術家たちは、世界大戦を近代文明・合理主義の破綻だととらえ、あえて非理性的なふるまいを前面に出すことによって文明批判を目論んだ。従来の概念ではガラクタにしかすぎない物体を「芸術」と称したり、ただ騒音をまき散らすだけの機械を「楽器」と称して、耳栓が必要になるコンサートを開いたりした。ノイズミュージックの元祖である。

どれも表現としては冗談みたいなものだが、意図からすれば真面目な冗談である。そして冗談は真面目であればあるほどに、おかしい。

マヴォの誕生

マヴォ創刊号

1924年刊行「マヴォ」創刊号

ヨーロッパで生まれたダダイズムは、またたくまに世界に伝播した。日本の村山知義は仲間とともに1923年(大正12年)、日本最初のダダと構成主義を標榜する前衛芸術グループ「マヴォ(MAVO)」を結成する。

MAVOという言葉はメンバーの頭文字を繋げた造語だという説があるが、創立メンバーは村山知義・柳瀬正夢・尾形亀之助・大浦周蔵・門脇晋郎の五人で、イニシャルをどう組み合わせればMAVOになるのか不明だし、そもそも人数があわない。結局、意味も由来もよくわからないようである。

最初のダダがそうであったように、マヴォもジャンルを問わない多彩な表現活動が特徴であった。メンバーは画家が多かったが、文学・演劇・音楽・建築と活動は多岐にわたって、とてもマヴォとはこういう集団だと一語で括れるものではない。

リーダーの村山に戦前のマスコミが冠したフレーズが「日本のダ・ヴィンチ」というものであり、絵画・小説・詩・写真・ダンス・演劇・映画に万能の才人ぶりを発揮している。もう少しわかりやすい説明としては、「戦前の寺山修司」といったほうがいいかもしれない。もっとも活動範囲は村山のほうが広い。

マヴォの名前を一躍世に知らしめた活動は、結成2ヶ月後(1923年9月)に関東大震災が起き、直後に行った「バラック装飾活動」である。マヴォのメンバーがペンキとハケを手に震災の焼け跡に繰り出し、無数に建っていたバラック建築にカラフルな装飾を施して回ったものだ。

大震災という未曾有の災害をもアートに変えてしまう奇天烈な発想は世人を驚かせたが、破壊と混沌の中に美とユーモアを見いだすマヴォイストの面目躍如たるものがある。このバラック装飾を手始めにマヴォと村上の活動は建築や舞台美術に向かっていった。

マヴォとのらくろ

村山知義は1901年東京に生まれた。開成中学、一高、そして東京帝大とエリートコースを歩んだ村山は、1922年にドイツへ留学し、当時の芸術界の最先端だった構成主義絵画とダダイズムに触れる。これに感化された村山は翌年帰国、芸術集団マヴォを結成した。

1924年には雑誌「MAVO」が創刊される。メンバーの絵と文章、オブゼ、写真で構成されたこの雑誌は1925年までに7号が刊行された。

雑誌「MAVO」の最終号には25年に加入した高見澤路直(本名・仲太郞)が版画を寄せているが、一枚一枚に火を点ければ爆発する本物の爆竹が貼り付けられていたという。

高見澤は変人ばかりのメンバーの中でも特に変わり者だったようだ。当時住んでいた借家はペンキで屋根も壁も真っ白に塗りたくられて通行人の度肝を抜いたとか、肩まで伸ばした長髪で、関東大震災のときには不逞外国人と間違えられて殺されるから外出は控えたほうがいいと友人に忠告されたとか、とにかく「前衛芸術家」の名に違わないアバンギャルドな人物だったようである。

マヴォのパフォーマンス

マヴォのパフォーマンス「踊り」。
逆さ吊りになっているのが田河水泡。

「マヴォ」第3号には、版画のほかに天井から裸で逆さ吊りになっている高見沢のパフォーマンス写真も載っている(写真)が、まさかこの男が、その数年後に戦前最大のヒットマンガとなる『のらくろ』の作者・田河水泡になるとは、この時点では誰一人夢にも思わなかったに違いない。ちなみに田河水泡の由来は、本名の高見澤(たかみざわ)を「た・かわ・みず・あわ」と分解して田河水泡の字を当てたものだそうだ。最初はこの字で「たかみざわ」と読ませていたというが、誰もそう読んでくれないのでなし崩し的に「たがわすいほう」で落ち着いた。このあたり、後の手塚治虫が本名の治に虫をつけて「おさむし」にしたが、誰もそう読んでくれないのでそのまま「おさむ」としたエピソードにそっくりである。

マヴォのメンバーにはマンガ家がもう一人いる。創設メンバーでもある柳瀬正夢(まさむ)もそうである。柳瀬は昭和初期の風刺マンガ家として、ヒトコマ物で人気があった人物だ。彼は実際、大震災の直後に不用意に外出して警官に逮捕されてしまい、取り調べを受けた経験がある。

高見澤は、前衛では食えないことからあくまで副業としてマンガに向かい、そちちが本業になったばかりか、商業的な成功までおさめてしまったパターンである。

リーダーの村山にしても、いったい何が本業なのかわからないほど多芸な人物である。正式な絵画教育も受けてないのだが、母親が婦人雑誌(婦人之友)の編集者であった関係から、高校時代から同誌にイラスト(童画)を寄稿していた。同じ時期には竹久夢二も同じ雑誌でイラストを描いており、夢二も村山も同じくらい人気があったという。

日本的で少女趣味の夢二とは異なり、無国籍なタッチでユーモアとナンセンスが同居する村山のペン画は子供読者に好まれ、村山はまずイラストレーターとして知られていた。
マヴォの中核にいた村山・柳瀬・高見澤の生活の糧はイラストやマンガから得ており、大衆芸術=ポップアートとの関わりは明らかである。私の雑誌「コミック・マヴォ」のタイトルも、この事実を踏まえて名付けたものだが、ファインアートやプロレタリア芸術とのかかわりでしか「マヴォ」が語られることがない現在、この方面から再検証される必要があると思う。

大正文化の光芒

マヴォは1925年には解散状態になっているので、活動期間はわずか2年しかない。しかし「大正モダニズム」と呼ばれたその時期の芸術文化における存在感は強烈であり、80年以上を経た現在も多くの論文が書かれ、メンバーのその後の活動を含めて発掘評価が加えられ続けている。

アートの文脈から「マヴォ」に触れたわけではない私は、美術史やアナキズムの文脈でこれを語る言葉を持たない。ただマンガが好きで笑いが好きで、論理や合理を逸脱した「へんなもの」が好きである私の「へんなものアンテナ」に、最後に引っかかったものがマヴォなのである。

「マヴォ」の活動を見るとき、そこに見られる村山や高見澤の若さとヴァイタリティ、そこから放たれる眩しい光芒に圧倒される思いがする。その光芒は現在から見ても輝かしいものであり、ハイアートであるとポップアートであると、およそ表現に携わる者にとっては忘れてはならないものだと強く思う。

マヴォの歌

林芙美子の代表作で、自伝的小説である『放浪記』に次のくだりがある。

朝の新鮮な空気の中を只むしょうに歩く。大学の前へ行ってみる。果物屋ではリンゴにみがきをかけている男がいる。何年も口にしたことがないリンゴの幻影が、現実ではぴかぴかと紅くまるい。柿も、ぶどうも、いちじくも、翠滴(すいてき)がしたたりそうな匂い。──さいやんかね、だっさ、さいやんかねえ、おんだぶってぶって、おんだ、らったんだりらあああおお……ダゴールの詩だそうだけれど、意味もわからずに、折にふれて私はつまらない時に唄う。

ここで林芙美子が「タゴールの詩だそうだ」と書いている「さいやんかね…」という意味不明の詩こそが、マヴォが会合を開いた時に全員で合唱していた『マヴォの歌』なのである(動画参照)。タゴールはインドの大詩人だが、本当にタゴールの原詩を日本語で聞き取った状態で書かれたものかは、残念ながらよくわからない。しかし「だそうだ」と伝聞形で書かれていたり、「唄う」とメロディがあるように書いていることから、芙美子が「マヴォの歌」を実際に耳にしていたことは明白である。

私はこの歌の存在を、巻上公一カバーによるレコードで初めて知った。彼のソロアルバム『民族の祭典』で今でも聴くことができる。

「マヴォの歌」 作詞者不詳
──意識的構成派の集団歌

前唱
おーす・きっぱすれんそ
ぶって・だな
あぱすて・じゃーおー
さいやんかね・らさ・さいやんかね
おんば・ぶって・ぶって
おんば・らったん・だりらーお

本唱
らいりす・らいりす・のーらん・めっぽら
ぽんぽら・せっぽんな
せんとる・りーとる・げーとるしゃーる
みゃーらく・しゃんてん
しゃんてん・すとらか・のーらん・めっぽら
ぽんぽら・せっぽんな
たたーりなーて・たたーりなー・ほ
たたーりなーて・たたーりなー・ほ
ちゃいれっちゃい・れっちゃい・れ
ちゃいれっちゃい・れっちゃい・ら
のーあん・ばいたら
めーあん・ばいたら
すててに・あんちに・らい
あ・てんならない・あ・てんならない
あ・てんならないが・ほー
れや・れや・れー
れや・れや・ら
れや・れや・れー

「マヴォの歌」の歌詞は、おそらく歌っていたメンバーたちにも意味不明だったと思われる。メロディも、どこの国の民謡ともつかない、素人がデタラメに作曲したかのような異様なものだ。当然、音源が残っていたはずもなく、巻上は、これを録音した当時(80年代初頭)、まだ存命だったマヴォの関係者に実際に歌ってもらって採譜したもののようである。巻上バージョンの最後に、明らかに老人の声で、鼻歌のように歌われている「マヴォの歌」をかすかに聞き取ることができる。

新婚当時の知義と籌子。
まさにモボ・モガのカップルだった。

林芙美子は『放浪記』によって昭和初期の文壇で寵児となったが、大正末期に上京して作家となるまでには、職を転々としながらも幾人かの俳優・作家と浮き名を流した奔放な女性であった。この時期に村上を中心とする若き芸術家たちとも交流を持ち、そこで「マヴォの歌」を聴いていたことはまず間違いがない。

3びきのこぐまさん

村山籌子作・知義画の
「3びきのこぐまさん」。

村山知義の妻・籌子(かずこ)もまた、大正期の芸術家サロンに出入りする女性の一人だった。籌子は先進的な教育で知られる自由学園の卒業生であり、童話作家で、知義も仕事をしていた「婦人之友」の編集者だった。二人は大恋愛の末、1924年に息子の亜土を宿した状態で「出来ちゃった婚」をする。左の写真は結婚当時の二人のツーショットである。

籌子は惜しくも1946年に他界したが、「3匹のこぐまさん」などの絵本を多く残し、未だにファンが多い。「3匹のこぐまさん」は1931年にアニメ化されているが、ナンセンスアニメの金字塔というべき、早すぎた傑作である。(完)